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    「是旃陀羅」問題とともにある「イダイケ」問題

    • 2019.04.30 Tuesday
    • 16:05

     

    陀羅」問題とともにある「イダイケ」問題

     

    蛮風が吹き荒れる社会において、弱者は栄光の外に置き去られる。

    ブッダは、二つの被抑圧者に解放の道を開いた。一つは奴隷階級。もう一つは、階級を問わず隷属は美徳と強いられた、女性である。    アンベード・カル

     

     

     

     「是旃陀羅」問題に関する学習会が2018年2月に真宗大谷派山陽教区で行われ、坂本仁氏(解放運動推進本部本部員)の解説を聞いた。その時配布された資料によると「是旋陀羅」問題に関しては、1922年部落解放同盟の井元麟之氏の問いかけに始まるとのことだ。その後正式に水平社幹部との懇談や多くの差別事象に対する糾弾がなされたが、「是旋陀羅」問題は改められることなく91年の時を経て 2013年、部落解放同盟広島県連合会小森龍邦氏より、再度その姿勢を問われ、「痛み」が伝えられた。その応答として宗門全体として「部落差別問題等に関する教学委員会」が立ちあげられ、報告書が提出され、2017年但馬弘宗務総長演説では下記のように述べられた。

     

     

    「次に、『観経』「序分」の「是旃陀羅」問題について申し上げます。現在、昨年6月に部落差別問題等に関する教学委員会から提出されました報告書を大きな拠り所として、教学会議への諮詢を経て、課題別委員会での協議や、教師養成に資する宗門近現代史の学習資料作成の作業、また、宗務関係者への学習を適宜行っております。このたびの課題への取り組みは、私たちの宗門の現状に対する厳しい問いかけであり、そのことを開かれた宗門への深い願いとして受け止め、私たちの今後の歩みをそこから開いていかなければなりません。まずは、報告書に基づく宗門内の課題共有を出発点として、宗門人の一人ひとりがこの課題にどのように向き合っていくのかを確かめ、さらに今後も部落解放同盟の方々との対話も踏まえながら、施策として具体化しなければならないと考えております。」

     

     山陽教区での学習会はその一環である。一人ひとりが向き合うということを求め、記名のアンケートにより応答をうながされた。坂本氏は差別を超えて行く文脈を見出していく必要を訴えられたが、その文脈の発見はあるのかを訪ねると、特にないとのことだった。まさに教えの問題として一人ひとりが考えて行かなければならないことなのだと自覚させられた。

     

     すでに教えの中での女性の位置づけに疑問を呈し、「如是我聞」としての観経理解を重ねてきた女性たちの歩みの中から、この「是旋陀羅」問題の解決につながる視点が「真宗大谷派における女性差別を考えるおんなたちの会」報告集第10集に提示されている。その中に掲載された落合誓子氏による文章は著書「女たちの謀叛」として解放出版社から昨年12月に出版された。伊勢谷功氏と比後孝氏の論考もあわせて浄土真宗に対する革新的な提言の書と言える。

     

     私自身女性たち先達の提言により新たな視点を獲得し、会の学習会で「いまだ宮深き牢獄の中―序、本文1―」を発表し、冊子に掲載を許された。

     

     その女性たちの歩みは、1987年より宗門に対し多数の要望書を提出するという形で表明されてきた。その中で坊守の位置づけの寺院教会条例の一部改正ということもあったが、女性差別に関して本質的な問題は解決しないままである。まさにそのことが「是旋陀羅」問題とも大きく関連している。

     

     

     今回立ち上げられた「部落差別問題等に関する教学委員会」の「等」の中には、女性や障害者の問題が込められているようだ。安富信哉委員長は宗務所で行われた2017 2 17是旃陀羅の課題に関する学習会でそれに言及された。根は同じであり、「私たちの差別体質」とよく言うが、問題となっているのは、私たちが「排除」で成立する城郭の中にいるということである。それは疑城であり、金の鎖につながれた胎宮だと指摘されるものであり、そこから出ることができないという信心の問題なのではないかと思う。

     

     「イダイケ」問題をこのへんで明らかにしていかなければならないのではないだろうか。実は女性差別の問題は、宗祖ご自身がその歩みの初めに女性から提示された問題だ。教行信証には「現代の聖典」で語られている観経解釈のような表現はないのであり、宗祖は一生の課題として女性と向き合ったはずである。

     

    行者宿報設女犯、我成玉女身被犯

    一生之間能荘厳、臨終引導生極楽

     

     男性社会に生まれた男性が、女性と出会っていくというのは、さまざまな面で「犯す」という立場に陥る。差別者は相手の尊厳を「犯す」ものとならざるをえないのだ。女性(また被差別者)は犯される立場を生き、身をもってその痛み味わう。それが相手に伝わり、犯すものとして男性(また差別者)自らの姿を照らし出し、認識されることを荘厳といい、それを受け止め、厭い、差別を超えて行く道を見出そうとすることが極楽へと導かれるということではないのか。(権力者による自身へのレイプ被害がもみ消され、それを世に問い続けている伊藤詩織さんの存在に教えられた。)

     

    小森氏は「痛い」ということを伝えられた。

    同じ痛みを女性は感じ続けている。

     

     

    観経において差別を超えていく文脈を見出すために

     

    1. 観無量寿経にも教行信証にも描かれていない「現代の聖典」にあるイダイケ像を見直す。
    2. イダイケが高楼からわが子を産み落としたということが涅槃経に伝えられるが、それを可としたということの背景に思いを馳せる。

      五障三従の女性が王にどのようにかしずいていたのか、少し考えれば想像できる。その王のいのちを奪うかもしれない子を殺せと言われれば可とするしかないのではないのか?もし断ったらどのようなことになるか想像に難くない。

    3. 我が子をそのような方法で産まなければならなかった女性の心身の痛みを想像すると、胸が張り裂けそうになる。
    4. イダイケはカースト支配差別社会の中で、五障三従とされる主体を持ちえない存在として、命令されるままに生き、権力をふるうものに翻弄され続けた存在であるという可能性を受け入れる。
    5. イダイケが自ら絶った「瓔珞」は、王妃が身につけるものとして彼女を支えると同時に縛っていた飾りであり、カースト支配差別社会の桎梏だったと受け取る。
    6. イダイケの嘆きは、仏陀が思いがけず牢まで来られ接見した時、まさにその力を得、忍従から自らを回復する叫びを放った。私たちはそれを「愚痴」だとして退け、二次被害を与えていることに気付かねばならない。
    7. 仏陀がその時黙っていたのはイダイケの嘆き、痛みを受け止め、その中から立ち上がる主体を見守っていたからだと受け取る。。
    8. イダイケは自らの居た支配差別社会を濁悪の世と認識し、悪を受け入れるのではなく厭い、そこから離れることを求める主体となった。
    9. そのイダイケが阿弥陀仏の浄土を選んだのは、夫も息子もともに救われることを望んだからではないか。夫と息子の間で葛藤し苦しみ続けたイダイケの救いもそこにあった。濁悪の世において迷い、欲と暴力で傷つけあい、罪を犯した者がともに救われる土である。
    10. 自らは仏陀によって浄土および無量寿仏を見ることができたが、仏陀亡き後、自分のような未来の衆生はどうしたらいいのかと問い、仏陀はそれに対して教えを説いた。イダイケは「サバイバー」の働きへと展開している。
    11. アジャセは母である女性の髪をつかみ引き倒し、殺そうとしたが、それを思いとどまったのは、母を殺すということを「恥じしめられた」のではなく、アウトカーストとしてカーストからはじき出され、居場所を奪われるというカースト社会の掟に刀を持って脅されたからであり、アジャセはイダイケではなくカースト社会に許しを乞うた。
    12. 「旋陀羅」とはアウトカースト、つまりカースト社会からはじき出された排除された者たちであり、「不宜住此」と対である。
    13. 月光が持ち出した毘陀論経は、排除の根拠を宗教的に固定化していた古代インドのバラモン教の根本聖典であるところから、それを日本の「被差別階級」に重ねて解釈するのは間違いであり、即刻改め謝罪するべきである。
    14. イダイケはそのような支配差別社会のまっただ中で、煩悩まみれの人間に殺されそうになった女性であることを認識する。
    15. 女性が五障三従であればこそ、アジャセは自分に従わなかった母に殺意を持つくらい怒った。母が従うべき「主人」となった自分に従わず、自らの意思を発揮して自分の殺そうとした者を助けたことで、怒り心頭となった。
    16. 支配差別社会では力のあるものがないものから奪うのをシステムとして構築する。そのもっとも奪われたものがアウトカースト(奴隷階級・捨てられた者)と階級に依らず被抑圧者となる女性である。
    17. 仏陀はその被抑圧者に向かって、観経を説かれた。為未来世一切衆生 煩悩賊之所害者を「未来の世の衆生の煩悩に害せらるる者」と解釈することを見直す。お経に書かれている通り「煩悩の賊に害せらるる者」としたときに、まさに女性や「旋陀羅」がその正客となる。その視点で読んだ時、お経の意味もまた大きく開かれることと思われる。大谷派でほとんど語られることのなかった「被害者」の救いがそこに立ち現われることが想像できる。煩悩で心身を喪失した賊が存在すれば、その暴力の被害に遭う者もいるのが現実であるところから、さまざまな問題の被抑圧者・被害者を解放する教えが開かれて共有できることを心から待ちわびる。

       

    2018年5月5日

                 真宗門の徒 釈 惟蓮 後藤由美子

     

     

     

     

     

     

     

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