真宗大谷派 親鸞仏教センター情報誌アンジャリ38号掲載文への意見

  • 2019.12.26 Thursday
  • 16:49

真宗大谷派の機関である親鸞仏教センターが年2回発行する情報誌「アンジャリ」に

掲載された文章が、大変問題のあるものであることに対し、下の意見をファックスで送付しました。

 

掲載文も、紹介したいものではありませんが、下にアップしています。

 

一読信頼に足るものではないことが分かると思いますが、

その意図していることの罪悪性を、編集者が見抜くことができず、

掲載してしまった責任を明らかにしなければいけないと思います。

 

 

親鸞仏教センター

情報誌 アンジャリ編集担当者様            http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/publish/publish01.html

 

アンジャリNO.38 林 智裕氏 「『人殺し』と呼ばれて――福島に暮らす原発事故被災者は、なぜ『悪人』にされたのか」について

 

 「現代を生きる人と対話する」ために、情報誌作成へのご尽力ありがとうございます。この度最新号の「『人殺し』と呼ばれて――福島に暮らす原発事故被災者は、なぜ『悪人』にされたのか」という文章を読み、大変驚きました。著者の林氏はジャーナリストとのことですが、極力事実に基づくことを伝える姿勢とは言い難いものを感じました。正確を期すというより、あいまいな物の言い方がベースになり、いろいろと話が拡大、展開されており、内容に不信感を覚えざるをえませんでした。

 


「被曝そのものによる健康被害は無かった」という断言は、今ここ自分のことでしかあり得ません。それを拡大して福島全体、過去未来にわたることのように位置付け、「被曝による健康被害がなかったことが許せない人々」という漠然とした存在をあげ、「反原発運動」というものからの攻撃を多々あげておられますが、それはどのような関係ややり取りの中で起きたことなのでしょう。文章の題までになった「人殺し」と呼ばれてとは、誰がどのように誰から言われたことなのでしょうか。もしそのようなことがあったとして、上記のような類の「断言」に端を発する部分があるかもしれないという考察があるべきだと思います。科学的な「安全」を「安心」に変えるといいますが、この文章には著者の主張される科学的安全の根拠が全く示されないまま「安全」が繰り返され、また主語のない形で「〜と言われている」という表現が目につきます。主観及び噂話のような話が強調され、読むに従い不信感が増します。

 

 

まず被ばくに関して科学的に安全と言い切るところに、科学性は乏しいと言えます。放射線影響研究所の50年以上にわたる被爆者の最新の寿命調査(LSS第14報)で、放射線被ばくの安全に関してはしきい値がないという結論が出されています。つまり被ばくに関しては、ここまでは安全という数値は見出せないということが多くの被爆者の人生によって、科学的に証されたということです。であるからこそ核兵器は廃絶されるべきであり、宗門でも子どもたちの保養や核兵器廃絶の署名活動に取り組んでいるわけです。福島で「被曝そのものによる健康被害は無かった」という断言は、被爆者を冒とくし、宗門の歩みと矛盾する主張です。この文章を掲載した意図をお聞かせ願いたいです。

 

 

「災害を終わらせるのは誰か」という小見出しでは、原子力緊急事態宣言の発令されたままである福島第一原発の収束を意味しているのかと思いきや、理科から社会科へ、社会科は宗教の出番だというような展開になり、不穏なものを感じます。福島原発のメルトダウンした核燃料は放射線が高すぎて人間が近寄れないため、水をかけて再臨界しないように冷やし続けているだけで、それも被ばくしながらいのちを削り作業をしている人々がいるから維持できているのです。元京都大学原子炉実験所助教である小出裕章氏は、収束方法は世界中のだれも知らないという衝撃的な証言をされています。そういったことを無視して、「災禍を終わらせる」とは、少し不遜が過ぎるのではと思います。

 

 

最後には原子力災害をさまざまな不幸や災厄・災禍と言い変え、いつの時代も誰にもあるものとつなげ、それを終わらせることが宗教の役割として、違ったものを結び付けて役割を果たすことを促しています。その展開は、国策のお先棒を担いだ戦争中やハンセン病療養所で行った慰問布教を彷彿とさせるものです。それは多くの人々を誘導し、いのちを奪ってしまった罪悪と位置付けられる行為でした。私たちは宗門をあげてそれをとらえ返し、慙愧してきたはずです。原発を進めることは戦争や隔離政策と同じく国策です。国策はいつも人々を踏みつけて責任を取らず、放置してきました。その流れの中で緊急時の対応として福島には通常の20倍もの放射線「忍従値」があてはめられ、避難が解除され、補償が打ち切られ、人々は事故原発のすぐ近くまでも「帰ってもよい」とされてしまったのです。日本には今もなお「原子力緊急事態宣言」が発令されています。東京電力は、メルトダウンした核燃料からは常に放射性物質が空気中に放出されていると報告し、冷却による汚染水が敷地内のタンクに溜まり続け、海に流す計画が何度も浮上しています。除染による大量の放射能汚染土の行き場がなく、再資源化措置として全国の公共事業に使う計画が立ち、これまで危険物として扱われたレベルの汚染物を焼却減容処理するために、周辺は再汚染されている状況です。

 

 

そういったことや、原発がまだ収束のめどもついていないことはほとんど報道されず、復興ばかりが伝えられています。まさにその真っ只中にいる福島の私の友人は、苦悩の涙を流しつつ、これほど人を踏みつける「復興」政策に裁判の原告として福島の法廷で憤りを陳述しました。その他さまざまな立場で選択を迫られる被災者の方々の葛藤はどれほどでしょう。原発に近い浜通りのいわきや相馬地方、中通りや会津地方でも、たとえ普通に暮らしているように見えても、収束しない事故原発に対し常に不安を抱え、昨年は復興庁のモニタリングポスト撤去の動きに対して、各地のお母さんたちが一斉に声をあげて、各地の地方議会が反対しストップさせました。その他多数の市民による放射性物質の測定、水害後の再汚染調査や、申し入れ、裁判が続いています。

林氏は福島はおおむね日常を取り戻しつつあると書いていますが、上記のようなことはあまり問題ではないと考えられているのでしょうか。世界最大レベルの原発事故を起こし、事故が収束していないにもかかわらず、その規模はそれほど大きなものではなかった、被害は少なかったとしたい大きな力があることを不問にし、それに対し声をあげる市民の存在をスルーするのであれば、その立ち位置はどこなのかと疑問に思います。

 

 

事故後、福島の方々を中心に全国からも告訴・告発人となってその罪を問うた東京電力刑事訴訟では、防ぎうる対策をせずに事故を起こした東京電力最高責任者の大きな責任を明らかにしました。しかし司法はそれを無罪とし、この国では原発事故や放射能汚染に関して責任をとる主体がいまだ存在しないこととなりました。このような状況では汚染は広がり続けるしかありません。事故原発の収束もままならず、被害は拡大し私たちの未来を襲う可能性が高まるばかりです。

 

 

国や大企業が責任に答える義務はないとする国に私たちは生きており、同時にその主権者としてありながら、私たちはその責任を捕えてはいません。大きな災厄というべきはこのことではないでしょうか。宗教の役割を言うとすれば、その自分自身の罪深さを知り、その責任に応える主体を獲得し、ともに生きる道を探し出す働きをすることこそが急務です。

 

 

福島の状況、そして被ばくということについて、自ら学ぶことを通じて、この掲載文が真宗門徒として受け止めうるものであるかどうか、検証することが必要だと感じます。そして早急に補う内容を掲載することによって、親鸞仏教センターの教化の姿勢を示していただくようお願いいたします。

 

2019年12月17日

                         山陽教区第七組 光円寺衆徒(坊守) 

                                        後藤 由美子 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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